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GREAT TRANGO グレート・トランゴ北東ピラー登攀
グレート・トランゴ グレート・トランゴ 保科雅則 グレート・トランゴ


究極のビックウォール
 チャンスの精には、前髪があるという。だから,いつであっても掴めるように身構えていなくてはならない。
ある日彼は、トランゴ・タワー遠征の計画を持って目の前に現れた。僕はためらうことなく、南裏健康の少し薄くなった前髪をし
っかり握りしめた。
 できあがった計画は、なかなか生きのいいものとなった。南裏がネームレス・タワーの新ルートを単独で登りパラパント。

ぼくと木本哲、笹倉孝昭、小坂昌弘の4人は、グレイトトランゴ北東ピラー(ノルウェイ・ルート)第2登。そして余力のある者はネームレス東壁のクルティカ=ロレタン・ルートのフリー化に行くというものだ。ところが、あまりに欲張ったプロジェクトだったせいか、世間の見かたは冷ややかだった。夢を賞賛してくれる人はごくまれで、ただ疑いの目で見る人がほとんど。どちらにせよ、成功するだろうといってくれる人はいなかった。
 正統派のフリークライマーでないぼくは、このトランゴ周辺のビックウォ-ルには以前から関心を抱いていた。
’79年のロン・コウク、ジョンロスケリーらによるウリ・ビボア初登。そして’88年ヴォルフガング・ギュリッヒらによるネ-ムレス南壁のフリー化。写真で見た彼らのクライミングは、すばらしく良質の花崗岩が舞台だった。ぼくは今まで自分がやってきたクライミングを思い返し、「必ず登り切ってみせる」といい聞かせた。不安と疑念を排除して、成功への呪文をくり返し唱えた。
 今回、遠征登山というものが初めての経験だったため、あらゆることが新鮮に感じられた。登山許可の取得、隊荷の発送、
イスラマバードでの事務手続き、ポーターとのトラブル・・・・・。
しかしそれらはクライミングという行為とはあまりにかけ離れているように思われてならなかった。
 6月23日早朝、パイユのキャンプ場を出発し、昼ごろトランゴ東面に食い込むドゥンゲ氷河に着いた。
ポーターは賃金目当てに砂煙りをあげながら走ってきた。
ポーター賃のトラブルがあったためひと足先に出発したぼくらを追いかけてきたのだ。ひと悶着のあと結局彼らの要求どおりの賃金を払うと、ポーター達は各々の村へと帰っていった。
 「BCに着けば、遠征の半分は終わったようなもんだ」といわれたことがある。それはそれで正しいのかもしれない。
しかし、まだ岩に触れてさえいない。早くあの巨大な壁に取り付いて尺取り虫のように這いまわりたい。
 翌日、南裏と2人で壁の偵察に出かけた。氷河を奥に進んで行くと左手に目ざすトランゴ塔群、前方にクルクスム、右奥にビアーレ、右後方にカシードラルといった岩峰に取り囲まれる。

岩壁の妖怪がじわじわと迫り、のしかかってくる。幸いぼくらはクライマーなので、恐れを感じることはない。
「まるで女風呂に迷い込んだようだようだな」と顔を見合わせた。 グレート・トランゴの北東ピラーは’84年にノルゥエイのハンス‐クリスチャン・ドーセスとフィン・デーリが初登した、標高差1500㍍に及ぶビックウォール中のビックウォールである。彼らは登頂後下降に失敗して帰らぬ人となってしまった。彼らがどのようにあの偉大な登攀をしたかは『マウンテン』誌111号の記事でわずかに知ることができただけだ。
 ぼくらはたいした情報もないままに、この大岩壁に挑まなくてはならない。
 ネームレスの基部を往復して高所順応をすませ、グレートの真下の氷河にABCを設営するとぼくらの心は高揚してきた。
それにしてもこの壁は大きすぎる。人間なんてちっぽけな存在だということをつくづく思い知らされる。黄金色に輝く花崗岩は殺伐として、生物などまったく寄せつけないかのようだ。ここに1本の線をひくことができるだろうか?頭の隅に不安がよぎる。ぼくは今までこんなにでかくて美しい壁を見たことはない。
 下部岩壁と上部岩壁に分かれるこのビックウォールは、それぞれ1000㍍と500㍍の高度差をもつ。壁は上部に行くにしたがって傾斜を増す。おまけに取り付くには200㍍の岩壁と500㍍の氷のクーロワールを登らなければならない。下部岩壁の基部にいったん荷物を集積するため重いザックを運び上げる。4ピッチの取付岩壁のユマーリングと13ピッチの雪壁。これでやっと取付だ。
 「遠征は最後に残された贅沢な遊びだよ」木本がいう。「でも、この荷上げってやつはただの拷問だぜ」 ふくれあがったザックには、ぼくら4人を頂上に運ぶための登攀具と生活用具、3週間分のエネルギーの元が詰まっている。どれをとっても欠かせないものばかりだ。この重い荷上げがなければ、ビックウォールも楽しいクライミングの思い出で終わらせることができるかもしれない。しかし、パキスタン料理のチリパウダーのようにきっとなくてはならないスパイスなのだろう。

11ピッチのヴァリエーション
 7月20日、死刑台に向かう罪人のように、氷でできた長い階段を登っていった。4人とも口を閉じ、黙々と歩いた。通いなれたBCからABCへの道だったが、この日はやけに長く感じた。翌日取付まで上がる予定だったが、悪天候が続き、23日に上がった。
 闇のヴェールに隠れていたグレート・トランゴがしだいに姿を現してくる。朝日を反射し再び金色色に輝きだすと、ぼくもまたクライミングの欲求にかられてくる。サイコロは振られた。
もうあとは登るしかない。取付からの数ピッチは緩傾斜なので、小手調べといくか。
 ところが,ここで予期せぬ事件が起こった。隣で準備していた笹倉がホールバックを落としてしまった。フィックス用のロープやギア類、ぼくのカメラの入ったバックが転がり落ちて行く。しかたない、2人で回収に行くことにする。途中、後続で登ってきた
木本、小坂たちとすれ違う。「たぶん氷河まで落ちたよ」
 日の当たりだした雪壁は危険だが降りることにする。氷河に着いてバックを回収してみるとカメラがバラバラに壊れていた。
がっくりきてそのまま帰国したくなったが、ABCのテントに戻って太陽が隠れるまでの間休憩し、もう1台の予備カメラを持ってまた登り返した。
 下部岩壁の取付にポータレッジを張ってC1とし、そこからルートを延ばした。初日に7ピッチ、2日目に3ピッチ計10ピッチで大きなフレーク裏のテラスに達した。氷河から双眼鏡で確認した、ノルウェイ隊のC4地点である。ぼくらはそこをC2とした。
 最初の3、4ピッチは傾斜もなく問題ないが、5ピッチ目から傾斜がきつくなり、5・11のピッチもあった。オレンジ色の花崗岩に走るクラックはまるでヨセミテにいるような錯覚を起こさせるしかし、またしてもあの拷問が待っていた。空身のユマーリング
なら拍子も軽やかに「いちにっ、さんしっ」と上がっていくところだが、40㌔近いザックをかつぐと、「くそ、ばかやろ。くそ、おもてえ」の苦しいうめき声にかわる。フリークライミングとビックウォールの違いを聞かれたら即座に荷上げと答えてやりたい。
 ぼくらは10ピッチのユマーリングを2回やって新たな前進基地をつくった。ここまでは順調に進んできたが、これから先は手ごわそうだ。記録によるとノルウェイ隊のラインは、ここから左上して雪解け水の流れるおう角を登っている。スカイフックやコパーヘッドを多用したA3/A4のピッチもある。ぼくらは右手にラインをとることにする。ABCからの偵察で木本が発見したコーナーを登り、左手にトラヴァースしてノルウェイ・ルートに戻る作戦である。遠回りだが岩は乾いているし、何よりも自分たちのラインが引けるのが、最大の魅力だ。
 C4から5ピッチ、風化した岩を登ると例のコーナー・クラックが現れた。フィンガーからハンドのみごとなクラックが続いている。最初に木本がリードを受けもつ。ダブル・クラックを右へ左へと弱点を見つけながら、30㍍でピッチを切る。5・10といったところだが、出だしでワンポイントのA0を残した。フリーで越えたら5・11だろうか? 次はぼくが受けもつ。こちらはコーナーに切れ込んだクラックだ。
 5・9ぐらいの広めのクラックを登り、ハンドジャムをしっかり決めてレスティング。ここから先はかなり難しいだろう。フリーで行けるだろうか?
 残りのロックス、フレンズを確認して登りだす。サムロックからしだいに細くなってくる。フィンガーロックががっちり決まるところでステミングして、前腕に負担がかからないように体勢をつくる。「あと15㍍」「あと10㍍」という下からの声に導かれながらロープを延ばしていく。壁がせり上がってきて身体が剥がされそうだ。トリプルと小さめのロックスでプロテクションをとりレイバックで強引に突っ込む。指先の第1関節しかジャムはきいていない。プロテクションも4、5㍍下になった。
 5000㍍の高みでこんなことをやるなんて、頭がおかしい奴しかいないだろう。「もう落ちてもいい」という誘惑を振りきるように、頭上に見えたノブに向かってランジした。安全なことといえば、グランドフォールはしなくてすむことぐらいだろう。指先がノブにかかった。呼吸を止め、いっきにマントルを返し、30㌢ほどのレッジにずり上がる。息が苦しい。完全に酸欠だ。頭がくらくらして倒れ込みそうになるが、ここにそんな場所はない。壁に寄りかかって荒い呼吸をくり返す。やっと呼吸が落ち着くとバックロープの先に結んだボルトキットを引き上げ、ドリリングの作業にかかる。いま登ったピッチが小川山にあれば、きっとイムジン河と並ぶクラッシク・ルートになるだろう。しかし残念なことに、ここは東京からあまりに遠すぎる。

上部岩壁に挑む
 右へ迂回した11ピッチのヴァリエーションから振り子でノルウェイ・ルートへ戻ると、そこから先は’88年ドイツ隊のものと思われる固定ロープがところどころ残されている。木本、小坂が3ピッチ登ったところで下部岩壁の終わりを告げる雪壁になった。持参した11本のロープ(登攀用5本、固定用6本)は全部フィックスしてしまったので、残置ロープを切って固定用に使わせてもらう。
雪壁を4ピッチで上部岩壁の取付に着いた。アタックを開始してから15日目でようやく下部岩壁を抜け、上部岩壁の取付にC3を設けた。ここでもう1度食糧の残りをチェックして計画を練り直す必要があった。1度の食事に4人で6袋食べていたフリーズドライを4袋に減らし、行動食も切りつめ、EPIも節約するとあと10日間は食いつなぐことができそうだ。
 しかし問題は体力だ。連日のハードなクライミングと荷上げで4人ともいやというほど痛めつけられてきた。下降のために余力を残しておかないと、ノルウェイ隊の悲劇を繰り返すことになる。そして上部岩壁は予想以上に切り立っている。ノルウェイ隊は弱点のない垂壁を越えるため、バットフックまで使っている。
 上部岩壁は最初のピッチから、そう易々と頂上を踏ませないぞと語っていた。ぼくはこのピッチで2度大きな墜落をした。1度はナッツをかけたフレークが欠け、5、6㍍落ちて膝を強く打った。2度目はナイフブレードが抜け、頭から墜落した。
 放棄して降参の白旗を揚げたかったが、それは許されないことだった。ビレイしている笹倉にこのピッチは不可能だったし、木本にかわってもらったとしても苦痛は同じことだ。どうせ苦痛を受けるなら、ぼくひとりで十分だ。気を取り直して登り終えるには、4時間を要した。30㍍のシンクラックからバットフックで右へトラヴァース、残置ボルトで右に振り子し、さらにワイドクラックを30㍍登るとやっと終了点だった。といっても、残置のビレイ点はなく、穴あけ作業をしなくてはならない。ノルウェイ隊が
下降に失敗した原因は、下降支点を完璧につくらなかったためだ。ぼくらはそんな過ちをしたくなかった。
 ワンピッチまたワンピッチと最高到達点が上がるにしたがい、あたりの眺望は変化してくる。ネームレス・タワーはその全貌をぼくらの前にあからさまにする。遠く東の方角には三角形のムスターグ・タワー、その後方には、K2がそびえ立つ。ガッシャブルムの山々も見える。
 蜘蛛のように固定ロープを下降して、この壁の中で唯一くつろげる場所、ポータレッジへもぐり込む。やがてまた闇がおとずれ、たくさんの星座がまたたきだす。天然のプラネタリウムの中、ぼくは銀河の彼方を旅する宇宙飛行士の気分に酔いしれる。子供
の頃誰もが抱いた夢――宇宙の旅人。
 「こちらグレート、全員元気に登っています。きょうは2ピッチ延びました」地上のベースと1日2回交信をかわす。「こちらベース、全員無事に帰ってくることを祈ります」ベースを守ってくれている有坂からの声。
 「こちらネームレス。きょうは台座から1ピッチ登りました。なかなかきわどい人工でした」ネームレスを登っている南裏の順調らしい。ほんのつかの間、安らぎのときをすごす。しかし明け方から雪が降りだし、現実の世界へと連れ戻される。ポータレッジのキャピノーに積もった雪で押しつぶされそうだ。まぎれもなくここは地球の上、かぎりなく地獄に近い場所。

完登、だが頂上は・・・
 上へ上へとルートは延びているはずなのに、頂上はしだいに遠ざかっていくように感じられる。
 ドーセスがあけたバットフック用の穴。自殺的に貧弱なビレイ点。彼の痕跡を見つけるたびに、その悲痛をぼくは感じとる。彼は映画『地獄の黙示録』のカーツ大佐だ。ぼくはただ彼を追い求めている。彼の偉大な、しかし気ちがいじみた登攀は6年前に燃えつきたはずなのに、その意志はまだ壁の中にとどまっているようだ。ぼくは自分の弱さ、遠ざかる頂にじだんだを踏む。
食糧はあと2日分しか残っていない。あと4、5ピッチで壁を抜けることができるだろうか?頭の中は不安に支配される。
「登らなければ頂上にはつかないぞ」木本の声でわれに返る。
「きょうは俺が行くから、明日は
保科が頑張れよ」
 10年前冬の一ノ倉沢南稜フランケのことを思い出す。あのときぼくは3ピッチ目で墜落して左足首を骨折した。インスタントラーメンをかじっての眠れないビヴァーク。しかし木本といるとなぜか安心感があった。翌日、ぼくらはルートを完登して冬季第2登に成功した。
 8月16日、ぼくらは長かった岩登りからようやく開放され、雪壁1ピッチを登って雪稜に立った。まずは小坂、そしてぼくが立ち、笹倉が登ってきた。小坂と笹倉は満足と歓喜の涙を流している。
最後に木本が着いたとき、遠くラトックの彼方にまっかな太陽が沈んでいった。ぼくと木本の目にも涙がにじんでいた。しかしそれは奥歯を噛み締めた、悔しさの涙だった。2人の視線の向うには北東峰の頂上があった。あと2ピッチか、3ピッチ先に。
 ぼくは強くなっただろうか?ドーセスの魂に触れて、以前と違うクライマーになれただろうか?ただひとついえることは、課題はまだたくさんあり、なにかを求めないといけないということである。確かなことは,ぼくらは生きて帰り、またクライミングができるということだ。これは、もっとも歓迎すべき真実である。


■カラコルム グレートトランゴ・タワー北東ピラー第2登
 使用ギアはピトン各種、フレンズ3セット、ストッパー類、フック各種。ロープは登攀用11㍉5本とフィックス用ケイヴィング・ロープ10㍉×6本を使用した。
後者は伸びが少なく、ユマーリングの際有効だった。ポータレッジは各自に1台計4台使用した。食糧・燃料は3週間分用意したが、食い延ばし壁の中に27日間滞在した。

                             1990年7月24日~8月19日